三笠会館ものがたり
EPISODE
05
「借金の中で生まれた名物料理
"若鶏の唐揚げ"」
今でも変わらぬ美味しさの「若鶏の唐揚げ」
思い悩んだ時に
昭和恐慌の嵐は銀座にも吹き荒れていた。
善之丞は誠意を尽くして返済の猶予を得たが、借金は山のように残ったまま。
それでも、善之丞は独自の発想で商売の勘どころをつかみ始めていた。氷水屋の開業から8年近く経っていた。
善之丞にとって幸運だったことは、思い悩んだ時に訪ねるところがあったことだ。
若い時のお寺での修行のおかげで、善之丞は坐禅をしては心を落ち着け、そして、尊敬するご住職の元に通っては話を聞いてもらっていた。
「私は坊さんなので商売は門外漢ですが。やりたいならやる。心が動かぬなら、誰に勧められても動かない方がいい。」
当たり前のことだが、ご住職の言葉に、善之丞は自然と力が湧いてくるのだった。
名物料理の誕生
営業不振をなんとかしようと、善之丞は料理人たちと共に知恵をしぼっては、試行錯誤の日々を送っていた。
そして、ようやく生まれた一品が、のちに三笠会館の名物となる「若鶏の唐揚げ」だった。
骨付きの鶏肉を醤油ベースの自家製たれにつけてから揚げる。熱々の唐揚げの香りが広がり、お客様から「美味しい!」と歓声があがる。
骨付きの唐揚げを手で持って召し上がっていただくために、木綿の小さなお手拭きと、骨入れ用の壺を添えた。お手拭きと壺にデザインされた三笠会館のシンボルである鹿の絵柄も愛らしく話題になった。
善之丞は安堵の胸をなでおろした。この厳しく苦しい状況があったからこそ、なんとかしなければと、皆で作りあげた料理「若鶏の唐揚げ」を大切にした。
のちに迎えた初代総料理長の佐藤松竹により、さらに美味しくなるように工夫され、今も三笠会館の人気メニューのひとつになっている。

昭和50年ごろに提供されていた「若鶏の唐揚げ」

丸鶏をさばく専門の料理人
小さな食堂から法人組織へ
善之丞は数字に弱く、算盤や帳面つけは部下にやらせておけばよいと思っていた。
しかし、数字的根拠がなく、見込みで割当てられたような課税制度には納得がいかない。税金が高いと文句を言っても聞いてもらえない。
合理主義の善之丞は、この税制に挑戦しようと、本を読んでは独学で商業簿記を会得した。そして、近代的な帳簿をもとに、翌年の税金決定時に毅然とした態度で異議を申し立てたのだった。
驚いたのは税務署員だった。「この規模の食堂で、ここまで整った帳簿をつけたのですか。」
税務署員は善之丞を見込み、会社設立を後押ししてくれた。
こうして、1939年12月、資本金10万円の「三笠商事株式会社」が誕生する。小さな食堂が法人組織になることは考えられないと話題になった。
チップ制度から給与制度へ
同じ頃、善之丞は給与制度を導入することを決心する。
店員の収入は、チップやお心づけに頼っていたので生活が不安定だった。これでは、店員の幸せにつながらない。
他の経営者たちに反対され、「いったい、谷は何を考えているのか。」と嘲笑する者さえいた。
それでも、営利だけに走らず、社会に役立つ商売こそが自分の打ち込む道であるとの信念を持っていた善之丞は揺るがなかった。
友野も「給与をすべて使わずに、少しずつ貯金をしなさい。」と店員に教えていた。
結婚のため店を辞めていく女性店員たちが、自分の貯金で新しい着物が作れるようにと、知り合いの呉服屋に頼み込んだりもした。
善之丞と友野にとって、店員の笑顔は何よりの喜びだった。

「チップ全廃」と書かれた看板
