三笠会館ものがたり
EPISODE
02
「三笠の誕生秘話」
昭和27年頃に善之丞が撮影した故郷・奈良の風景
銀座との出逢い
東京で貿易会社の小間使いをしていた善之丞は、新聞広告で見つけた木挽町の歌舞伎座前の貸し店になぜか惹きつけられた。銀座や新橋の花柳界に近いこの一等地で商う夢が胸に広がる。
「これも縁だ。やってやれないことはない」と、負けん気の善之丞の姿があった。
しかし、手元には一銭もない。嫁入り道具を売れば何とかなると、善之丞は友野に迫った。
「着物が大事なら着物を抱いて国に帰れ、俺が大事なら着物を売って協力しろ」
翌朝、友野は静かにうなずいた。
「着物は全部売って協力します。実は、善之丞を困らせ国に帰ってくるように仕向けろと言われていました。でも、あなたが頭を下げてすごすごと帰る姿は見たくありません」
そして「お願いがあります。私も働きますので、あなたものんきなことを考えないで一生懸命になってください」と、善之丞に切々と訴えるのだった。
ふたりは長女の登見代を実家に預ける苦渋の選択をし、開店準備に奔走する日々が始まった。

長女の登見代
「三笠」誕生
1925年6月5日、歌舞伎座前に、氷水屋「三笠」が誕生した。
善之丞の故郷への思いから、奈良の三笠山から店名をつけた。
ふたりは一日二食、夜は店の床にせんべい布団を敷いて寝泊まりし、毎日、懸命に働いた。
しかし、その年は冷夏で、かき氷の売上は1日7~8円、多くても15円と苦戦が続く。
善之丞は「何とかしなければ」と、その頃、流行り出した喫茶店に目をつけたが、どう活路を開けばよいか、皆目わからない。
しかし、必死に活路を探していると、不思議と助けてくれる人たちの出会いがあった。
和菓子屋さんに奉公していた人から秘訣を伝授してもらい、ゆであずきを売り始めた。
また、浅草の合羽橋の道具問屋では「歌舞伎座の前、客は新橋の花柳界。ならば、一番上物
(じょうもの)をそろえなさい」と道具を貸してくれた。
当時、5銭だったゆで小豆を青磁の器に鉢に盛り10銭を売り出したところ、新橋の芸者さんたちの間で「粋だねぇ」と評判を呼び、出前が舞い込んだ。
また、善之丞は、あんみつ、季節のフルーツみつまめ、あずきアイスを次々と考案し、「三笠」は評判になっていった。
現在も三笠会館に受け継がれるかき氷とあんみつ


家族水入らずの暮らし
年が明ける頃には、実家に預けていた長女の登見代を迎えに行くことができた。
調度品も鏡台もない。石油箱に新聞を貼った即席の卓しかない。でも、家族と過ごす時間は幸せだった。たまの休日には浅草の観音様をお参りし、映画を見たりお寿司を食べたり。少しずつ余裕が出てきた。
そうなると「さて、次はどのような店を出そうか。」と、善之丞の胸には新たな炎が灯り始めるのだった。
