三笠会館ものがたり
EPISODE
11
「継ぐ者の覚悟」

三笠会館 鵠沼店
孫 善樹の入社
本店ビルがオープンした2年後の1968(昭和43)年、孫の善樹が三笠会館に入社した。
大学を卒業し大阪で修行をしていたが、役員の説得に応じて入社を決めた。
善之丞は、自由に羽ばたいているスポーツ好きの善樹が会社という組織の中で勤務することが本人にとって幸せになることかどうか思案していた。しかし、頼りにしていた娘婿が先に逝ってしまったこともあり、役員と相談して、孫を呼び寄せることにしたのだった。
善之丞は、尋常小学校卒業後、上の学校に進みたかったが、父親の寅吉の考えでお寺に修行に出された。その自分とは違って、善樹は大学まで不自由なく育ち、さまざまな体験をしてきている。この体験こそが、これからの商売に大切な要素になると考えていたが、この闊達さが心配でもあり、大学時代は武蔵野にある坐禅の道場にも通わせていた。
ただ、その道場でも、老師や先輩に可愛がられ、道場からスキーに行くなど自由奔放な日々を送っていた。
その様子を見ていた善之丞は「この子が、三笠会館の次の時代を作っていくのかもしれない」と胸のうちでつぶやいていた。
後に、善樹の母である登見代も「どこに飛んでいくかわからない心配はあるけれど、バイタリティあふれる善樹は三笠会館を継いでくれる」と見守っていた。
一方、善樹は三笠会館に入社した時点で「いずれは三笠会館を継ぐことになるだろう」と決意をしていた。「お祖父さんとお祖母さんが大切に育ててきた三笠会館だ。自分では力不足かもしれないし、やり方は違うかもしれない。でも、ふたりの思いは引き継いでいくのは自分の役目だ」と考えていた。
善樹は、まずは、従業員自身が仕事を楽しむことがお客様にも喜んでいただけるサービスにつながるとして、仕事が終わった後、パーティーを開くなどさまざまな楽しみを企画した。善之丞や友野が大切にしてきた従業員の笑顔を広げていくことを実践していた。
新しい挑戦 鵠沼店誕生
善樹は「食を楽しむ空間をもっと自由に」と、銀座以外の場所にも店舗を作ろうと考えた。仕事を終えた後、土地勘のある湘南エリアを中心に車を走らせては、どこが良い場所がないかと探しまわっていた。
仕事が東京中心のため自宅は都内にある富裕層も、週末は、海のある湘南エリアの別荘で過ごしている。また、徐々に通勤圏内が広がっている状況を見て、湘南にこれからの可能性を感じていた。
善樹は善之丞を説得し、そして、1973(昭和48)年4月に、善樹の念願だった「三笠会館鵠沼店」がオープンした。江の島と富士山が見える立地に、三階建てのレストランを建てた。
1階は駐車場を広々と取り、石段を上がって2階の入口へと行く。入口に立つと鵠沼海岸の海が広がる。レストランは2階と3階にあり、3階は個室としても利用できるようにした。
ロードサイドにあるフランス料理店はまだ少なく、別荘や近隣に住んでいる方たちだけでなく、休日に車を走らせて外食を楽しむという若い人たちにも人気となった。
また、善樹は食だけでなく、店内にブティックを作り、洋服やアクセサリーを置いた。セレクトされた商品に女性のお客様ははしゃぎ、男性陣は食事だけでなくプレゼントまで買うことになるが、食だけでなくエンターティメント要素を加えたレストランはオシャレだと、日本経済が上昇していくことも相まって話題になった。
また、三笠会館の洋風おせち料理の発祥は、ここ鵠沼店から始まっている。近隣のお客様からのご要望で、オードブルをバスケットに詰めて届けたところ、評判を呼び、「洋風おせちの元祖」として知られるようになった。日本の伝統行事にも、洋食の喜びを取り入れたいという思いが形になったのだった。
善樹が入社し、さまざまなアイディアを実現していき、新しい風を感じていた。
ただ、明るいことばかりではなかった。

オープン当時の三笠会館 鵠沼店

現在も発売されている三笠会館の「洋風おせち」
長女 登見代との別れ
鵠沼店開店から2ヶ月後、善之丞と友野の長女であり、善樹の母である登見代が53歳の若さでこの世を去った。突然のことに家族も従業員も悲しみが大きく、特に、娘婿も見送った善之丞と友野の悲しみは見ている方が辛くなるくらいだった。
登見代は若い時から身体が弱かったが、持ち前の勝気さと朗らかさで、夫辰雄が亡くなった後、ふたりの息子を育てながら、常務として三笠会館に尽くしてきた。また、茶道に打ち込み、従業員にお稽古をするなど、短い人生を精一杯生き切った。
善之丞は、登見代が幼かった時に、友野の実家に預けて離れて暮らしたことを思い、生きていればあれもしてやりたかった、これもしてあげたかったと悔やんでいた。友野の悲しみは一層深かった。登見代の葬儀の時、友野は肺炎になっていることを隠して参列し、翌日、家で倒れた。
逆縁の悲しみの中でも、友野は「こんなことでは登見代に顔向けできない。もっとしっかりしなくては」と繰り返し、気丈さを見せていた。
悲しみや辛さは深かったが、家族の気持ちは団結していった。
未来への灯
日本の経済は成長の一途をたどっていた。休みの日はレストランで外食を楽しみ、旅行に出かけ、暮らしを楽しむ余裕ができてきた。
1975(昭和50)年、避暑地で有名な軽井沢に「三笠会館 軽井沢店」をオープンした。夏の2ヶ月だけの営業だったが、銀座や鵠沼をご利用になっているご常連をはじめ、別荘に滞在している人たちにお越しいただき、賑わいを見せていた。
未来は輝いていた。 皆が、明日を信じていた時代だった。
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