三笠会館ものがたり
EPISODE
06
「戦火を越えて―並木通りの再出発へ」
「レストラン三笠会館」
闇取引で留置所へ
善之丞は順調な商いに喜びと自信を抱いていたが、日本は満州事変、支那事変へと進んでいく。
血気盛んな善之丞は商売そっちのけで新聞やラジオのニュースに夢中になっていた。
しかし、国を挙げての臨戦体制がしかれ、商売は次第に窮屈になっていく。
物価統制令が発表され、商品に公定価格がつけられた。これに違反すると処罰されるが、守っていたのでは商売は成り立たなくなると、世の中は、闇取引が横行していた。
善之丞も、背に腹はかえられず、唐揚げ用の片栗粉を買い置きして倉庫に隠したが、ほどなく発覚し、淀橋警察署の留置場に送られた。
善之丞は、留置所で坐禅を組みながら考えた。
「商売とはいえ、自分の利益ばかりを見ていた。戦場にいる人たちを思えば、闇に手を出すべきではなかった」
闇で仕入れはしたが商売に使っていなかったため、前科はつかず、すぐに釈放となった。
だが、この日を境に善之丞は覚悟を決めた。
「これからは一切、闇に手を出さない」
公と私のあいだで
1941(昭和16)年12月8日、真珠湾攻撃の臨時ニュースが国中を揺るがす。
開戦とともに、警視庁の指令によって大東京料理飲食業組合ができ、善之丞は初代指導部長に任命された。公の責任ある立場に立たされた善之丞は、店は店員に任せ、組合の運営に専念した。
食糧増産隊を組織し、千葉県の我孫子に三百町歩を開墾したり、焼け出された人たちのために炊き出しをしたり、公のために奔走した。
また、善之丞は、東京都より飲食店の公定価格について相談を受け、公定価格の構想を練りながらも悩んでいた。
「飲食業の私が作れば、今までのような抜け道だらけのものではなく、業者をがんじがらめに縛りあげるものを作ることができる。そうなると、同業者も自分自身も苦しむことになってしまう。さりとて、私を信用してくれたお役人に対して、いい加減なものを作ってごまかすわけにもいかない」

創業者・善之丞
住職の一喝と覚悟
公に尽くせば己が縛られる。己を守れば公に背く。
迷いを打ち明けた善之丞に、住職は一喝した。
「つまらんことを言うな。戦争のどさくさで儲けようとケチな考えをする人間に大きな仕事は出来ぬ。戦は百年続くものではない」
住職の言葉に、善之丞は迷いを断ち切った。
空襲で東京が火につつまれた時でさえ、「こんな時に騒いだってどうなるものでもない。寿命があれば生き延びることができるだろう」と静かに坐禅を組んでいる善之丞の姿があった。
公のために協力を惜しまず、懸命に働いた善之丞だが、戦火はついに全ての店を焼き尽くした。
全店焼失から再起へ
1945(昭和20)年8月15日、敗戦。日本中が深い喪失感や絶望感に覆われていた。
全ての店を失ってしまった善之丞も意気消沈の日々を送っていた。
ある日、善之丞は、勧められるまま新橋の青空市場へ足を運んだ。人々の熱気と復興の息吹に触れ、「もたもたしてはいられない」と、善之丞は背中を押された思いだった。
歌舞伎座前の店を片づけていると、魚河岸の友人から「ここで魚を売らせてくれ」と頼まれ、善之丞は快諾した。バラックの中で、魚はまたたく間に売れて、謝礼を受け取った善之丞は、この大当たりに目を見張った。善之丞の商いの火が、ふたたび灯る。
明るい未来を思い描く
バラックで喫茶店を再開したが、このままではいけないと考えた。
「混乱の最中だから今はバラックで商売ができるが、いずれしっかりした建築が要求されるに違いない。次の手を打とう」
まずは土地を見つけようと、あれこれ探しているうちに、ふとした縁から、銀座五丁目の並木通りの土地を手にいれることができた。 この場所が、現在の三笠会館本店となる。
材木は故郷の吉野から取り寄せ、一部はセメントやガラスと物々交換して、総二階建ての建物を完成させた。 その上、長女の登美代は婿 辰雄を迎え、初孫も生まれた。
まだいたるところに戦争の傷跡はあったが、善之丞は、明るい未来を思い描き、意気揚々と「これからは食堂でなく、レストランだ。」とやる気に満ちていた。
ところが、「レストラン三笠会館」を開店したとたん、日本政府は食糧事情の改善を目的に飲食営業緊急措置令を発布。1947(昭和22)年7月、飲食店営業が全面停止となる。
「建物はやっと完成したのに、お客様を迎えることができない...」
善之丞は、泣いても泣き切れない思いで茫然と立ち尽くすだけだった。

「レストラン三笠会館」

