三笠会館ものがたり
EPISODE
08
「常念必現の決断」
三笠会館本店 工事の様子
(社内報『るんびに』より転用)
「参禅会」拠り所を立ち上げる
善之丞は、坐禅で苦難を越えてきた経験に感謝していたが、店員にも坐禅を経験させるべきか、長く思い悩んでいた。坐禅は易しくないし、商売の得になるかもわからない。
それでも、100人にひとりでも、悩みを抱え、迷った時に坐禅をして乗り越えられるかもしれない。
皆の人生の拠り所になってほしい。
善之丞は1962(昭和37)年、「参禅会」と称して、心を整える場をつくった。
(この思いを受け継ぎ、現在も坐禅研修を実施しています)
社内報『るんびに』創刊
善之丞にはもう一つの願いがあった。社内報を作りたい。
1963(昭和38)年4月8日、『るんびに』創刊。お釈迦様が誕生したとされるネパールの「ルンビニ(Lumbini)」という美しい花園の地から、社内報『るんびに』と名付けた。ここから従業員が成長してほしいという願いが込められていた。
創刊号はB5判6頁と小さいものだったが、社内ニュース、店のトピック、向上会、推薦映画、お料理メモなど、興味ある情報で満たした。
出来たばかりの『るんびに』を胸に、善之丞は「向上会」「参禅会」と併せて、成長につながる取り組みを続けた。
善之丞自ら『るんびに』の記事の執筆にも力を入れていたが、それだけでなく、社員にも原稿を書かせ、人生で必要な文章力をつけることも願っていた。
(『るんびに』は、『るんびにい』『ルンビニ』と誌名は変わり、大きさや頁数も変わっていきますが、2019年の第568号まで続き、お客様と三笠会館、社員とその家族を結ぶ冊子となりました。『三笠会館ものがたり』は、創業者の著書や『るんびに』を参考に書いています)

「参禅会」の様子

社内報「るんびに」
夢物語
3年後に1964(昭和39)の東京オリンピックを控えて、ビル建築の大ブームとなった。大きなビル建築が始まると、善之丞は銀座並木通りで間口12間、奥行12間の木造建築のままでいいのか......という思いが募っていった。
善之丞は「他は他、我は我」とうそぶいていたが、内心、闇に手を出さなかったため商売に遅れをとっていることを感じて、商いに闘志満々であった。
だが、資金はいくら要るのか。建て直している間、どこで仮営業したらいいのか。店を休むとしたらどのくらいの期間になるだろうか。お客様にご迷惑をかけまいか。社員の働く場を守れるか。
悩みながらも、地下2階地上9階のビルを建てて、どのような店を営むかという夢は大きく膨らみ、善之丞は、本店ビル建築を夢物語として楽しんでいた。
常念必現(常に念ずれば必ず現れる)
1964(昭和39)年、新しい建築条例の施行が予定された。施行前に着手していなければ、建てられる規模が1〜2割小さくなる。設計はしていたが、資金不足で着工を見送っていた。だが、そう悠長なことを言っていられない。
総工費は約5億円と見積もり、まずは2億5千万円を何とかする。
善之丞の胸にあったのは「常念必現」、すなわち常に念ずれば必ず現れるという信念である。
夢だった本店ビルのことを常に考え続けるうち、人の縁が不思議とつながり、協力してくれる企業も現れた。取引銀行では支店決裁の限度を超える額となり、善之丞は頭取に直談判して借入承諾を得た。
英国風の旧店舗を前に、結婚披露宴やクリスマスパーティーの喜びあふれる様子、お食事を楽しむお客様、笑顔で働く従業員の姿など、二十余年の出来事が走馬灯のように胸をよぎった。
「想い出を抱えながら、三笠会館は力強く生まれ変わる」
善之丞は友野とともに、取り壊しが始まった店の前で決心を新たにした。
娘婿の遺志に誓う
善之丞と友野の長女の登見代の夫、辰雄が病に倒れた。
善之丞は、やがて辰雄と共に三笠会館を担う未来を思い描いていたが、東急の五島社長に「善之丞さんも辰雄君も気が強い。しばらく私に預けておきなさい」と諭され、 辰雄は東急で重役室主査兼秘書課長として勤務していた。
善之丞も「自分にもしものことがあっても、辰雄がいるから大丈夫だ」と頼りにしていた。
辰雄も、善之丞の期待に応えるように、入院中も病室で計画や計算書に目を通し、幹部社員を病室に呼んで指示を続けていた。
しかし、家族と従業員の祈りもむなしく、1964(昭和39)年の暮れ、辰雄は永眠。53歳の若さで、長男も次男もまだ学生だった。
悲しみを抱きつつ、善之丞は1965(昭和40)年 年明け早々、本店ビルの工事に着工した。 後継ぎを失った善之丞の落胆は大きかったが、「自分がしっかりして、辰雄と共に描いたこの計画を成功させる」と辰雄の墓前に誓った

