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三笠会館ものがたり
EPISODE
07

「一介の飯屋のおやじの決意」

「レストラン三笠会館」の当時の外観

料理禁止令の衝撃(正式名:飲食営業緊急措置令)

本格フランス料理を目指し、ホテル出身の佐藤松竹を総料理長に迎えたその矢先、飲食営業緊急措置令が発令された。

 

食糧事情の極度の悪化により、全国約33万の飲食店に休業命令が下ったのだ。違反すれば3年以下の懲役または5万円以下の罰金、そしてお客様にも1年以下の懲役または1万円以下の罰金。商いの灯がいっせいに消えた。

 

しかし、表向きは休業札を掲げつつ、常連だけを裏口から通す裏口営業をしている店が増えていく。

 

それでも善之丞は、胸中で静かに言い切った。

「闇は一切しない。この政令もいずれ解除されるだろう。だが、このまま何もしなければ店が潰れてしまう。何か手を打たなければ......」

白札をめざして(米飯販売許可店)

裁判所の判事がヤミ米を食べず、栄養失調で亡くなったという新聞記事を読んだ善之丞は決心した。

 

「真面目な店が商売できず、闇物資が堂々と並ぶ。そんな理不尽があるか。このまま倒れるわけにはいかない」

 

善之丞は、組合の仲間と共に動き出した。

抜け道ではなく、正面からの緩和策を求めた。まず「限度営業」「登録制営業」を提案。食糧事情の厳しさは理解できる。だからこそ、直ちに撤廃ではなく、運用の柔軟化と段階的緩和を要望した。さらに都庁や農林省に出向き、また記者と語り合い、世論を喚起した。

 

やがて東京都は米飯販売許可店制度を導入。米飯販売を認める白札が都内74店に交付されると聞くや、善之丞は都庁に日参して、その枠を手に入れ、嬉しさのあまり、店のショーウィンドウに飯を並べた。

き交う人々は驚いたようだったが、善之丞は「これで堂々と商売ができる」と張り切っていた。

100円の「向上会」

営業再開に合わせ40人ほどを雇ったが、調理場の肉をつまみ、酒を飲み、挙句は喧嘩も始まる。

手を焼く者も少なくなかった。

善之丞は「この連中も教育すれば何とかなるだろう。勉強会を開いてみよう」と、幹部に相談したところ、「無茶です。誰も出席しませんよ」と難色を示した。

「では、時間どおりに来た者には100円を出そう」と伝えると、結果は出席100%。

100円は映画一本分の価値があった。目当てが100円でも構わない。

善之丞は「私が社長でいる間は100円を出す」と約束し、勉強会を毎週土曜の朝8時30分から10時まで月4回行った。

 

同業者には「谷君も物好きだな」「勉強会なんて、

2階から目薬だよ」と笑われたが、善之丞は揺るが

ない。

 

良き店員をつくることは、良き社会人をつくる

こと。これは経営者としての責任だ」

 

善之丞自身も懸命に学び続け、店員に語り続けた。

100円が人を動かし、学びが店の空気を変えていった。

勉強会は「向上会」と名付けられ、やがて3,200回を

超えるまで続いていく。

 

善之丞と友野は「良き店員は、良き社会人なり」

三笠会館の精神のひとつとして、教育を実践し続けた。

昔の三笠会館のパンフレットに記載されていた「​向上会」
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製菓部のはじまり

戦後、外地から引き揚げてきた親族に頼られた善之丞は、それぞれに仕事を与えた。

そのうちの一人甥の谷長介には「パンを焼け」と告げる。これが三笠会館製菓部のはじまりである。

 

長介は海外の旅先で出会ったクロワッサン、バウムクーヘン、リーフパイに挑んだ。レストランのお食事だけでなく、おみやげや贈答の一箱にも喜びを届けたい。そんな思いが、次第に形になっていった。

 

夏の焼き場は容赦がない。直火の前は洋服を着ていられない程の暑さで、汗をぬぐいながら人気のバウムクーヘンを皆で焼き続けた。

 

そして、1956(昭和31)年の栄誉にもつながっていく。

「第弐回 全国洋菓子展示大品評会」において、三笠会館製菓部の谷長介は、バウムクーヘンで

「総理大臣賞」、リーフパイで「農林大臣賞」を受賞した。

(総裁:高松宮宣仁親王/主催:日本洋菓子技術協会/後援:農林省・毎日新聞社)

賞状バウムクーヘン.JPG
賞状リーフパイ.JPG
バームクーヘンとリーフパイにおいて受賞した実際の賞状

一介の飯屋のおやじとして生きる

善之丞は、いつか政治家になりたいという望みを持っていた。終戦後、参議院に出ようと虎視々と機会を狙っていたが、坐禅を繰り返しているうちに、

「参議院議員の肩書があってもなくても、自分の値打ちは変わらない。大切なことは自分自身を磨くことだ」

政治家の夢をあっさりと手放し、自ら「一介の飯屋のおやじ」と称して、商いに向き合うことを選んだ。

 

1951(昭和26)年、「レストラン三笠会館」は中庭をもつ英国風建物に大改装。 一部三階建てのチューダー・コッテッジ風の建物で、とんがり屋根に風見鶏が乗った洋館は銀座で大きな話題となった。

 

そして、数寄屋橋ショッピングセンターに「銀座フランス屋」を、西銀座デパートに「三笠会館 西店」を開店した。

「銀座フランス屋」では、鹿の意匠の南部鉄器で出した「西洋釜飯」(ドリア)が人気となる。 「三笠会館 西店」は、開店当初は苦戦をしたが、銀座のネオンが目の前に広がる見晴らしの良いこの店は、やがて「ひとめで銀座 ふたりで三笠」というキャッチコピーが生まれ、人気店になっていく。

 

第二次世界大戦で全店を焼失してしまったが、多くの方に助けてもらい、「三笠会館 本店」をはじめ、また銀座に店を持つことができたと、善之丞と友野は感謝の思いでいっぱいだった。

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バームクーヘンを焼く当時のスタッフ
旧本店前.JPG
本店ビル建築と挑戦していく善之丞、友野夫妻。
三笠会館は次のステージへと向かっていきます...。
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​株式会社 三笠会館
〒104-0061 東京都中央区銀座5-5-17(並木通り)
Tel. 03(3571)8181
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