三笠会館ものがたり
EPISODE
14
「時代の波を越えて」

2005年にオープンした三笠会館 本店1階
イタリアンバール「LA VIOLA」
外食産業の停滞
善樹は、食とエンターテインメントの世界を築いてきた。
立地や利用動機に合わせ、さまざまなレストランを展開していった。
お客様が「どのレストランにしようか」「今日は何を食べようか」と迷う時間そのものを楽しんでくださっている。そんな手応えがあった。
しかし、日本の外食市場は1997(平成9)年、約29兆円をピークに縮小へ向かう。人口は減り、外食率も下がった。市場規模は次第に小さくなり、経済の停滞が続いていった。
善樹は「こういう時こそ、外食の楽しさを伝えたい」と、従業員と一緒に企画を立て、工夫を重ねた。
それでも、経済低迷の影響は大きく、思うような結果に届かない日々が続いた。
辰哉、三笠会館へ
2003(平成15)年1月、善樹の息子の辰哉が三笠会館に入社した。
大学を卒業して他業界で働いていたが、親戚の説得を受け入れ、辰哉は三笠会館で働くことを決断した。
最初に手をつけたのは、書類の整理とコンピューターの活用だった。正しい情報が届くように、ネットワークシステムを構築し、生産性向上から取り組んだ。
また、辰哉は、経営不振の店舗を整理しながら考えた。
「いま、求められているのはどのような店なのか」善樹とは異なる視点で、新しい業態開発に向き合った。
善樹の時代には、高度成長やバブルがあった。
今日より明日が輝く。経済は潤い、勢いがあった。
一方、辰哉の世代が向き合ったのは、デフレの厳しい時代だった。
消費者のお財布の紐は固かった。
それでも、辰哉は「食には本来の楽しさと豊かさがあるはずだ」と信じていた。
バール文化を日本へ
辰哉が最初に手がけたのは、イタリアンバールだった。
かつてイタリアを訪れたときに経験したバールを思い出した。 立ち飲みのカウンター。交わされる笑顔と活気。 人々の暮らしに溶け込んでいるバール文化を銀座にも持ち込みたい。
辰哉はもう一度イタリアへ渡った。 コーヒー酔いをするほど、何軒ものバールをはしごし、「やはり、この楽しさを実現させたい」と決心した。
2005(平成17)年、銀座並木通りの本店1階を「イタリアンバール LA VIOLA(ラ・ヴィオラ)」に改装。
立ち飲みのバンコは、日本人にはなじみが薄く、当初は苦戦した。 しかし、並木通りのブティックで働くイタリア人たちが一日に何度も店を訪れ、エスプレッソを楽しんでいる姿を見て、辰哉は思った。
「利益だけでなく、文化をつくることが大事だ。 文化は、すぐには根づかない。だからこそ、続ける意味がある」
その思いは、創業者である曾祖父の時代から、三笠会館が大事にしてきた「食を通して心を豊かにする」という信念とつながっていた。

三笠会館 本店1階「LA VIOLA」の店内
左側のカウンターでは、バンコ(立ち飲み)スタイルでお楽しみいただけます

洋食文化の復活
辰哉は、次に、日本人が親しんできた「洋食」を現代に蘇らせたいと考えた。
明治維新後、文明開化とともに伝えられた西洋料理。やがて庶民に親しまれる和洋折衷の料理へと変わり、日本独自の食文化として育ってきた。
2007(平成19)年、「銀座洋食三笠會館」を開店。
懐かしさと温もりを残しつつ、厨房には最新の設備を導入した。生産性を高め、時代に合った形へ進化させた。
レトロブームの追い風もあり、幅広い世代が店を訪れた。
辰哉は、日本独自の洋食という食文化を次の時代へつなげようと決めた。

銀座洋食 三笠會館 池袋パルコ店


懐かしさと温もりが広がるレトロな店内
洋食の先駆けである三笠會館ならではの伝統の料理
「印度風 スペシャルチキンカレー」
震災と再生の思い
2011(平成23)年3月11日、突然、大きな揺れがあった。東日本大震災。
こんな大きな揺れは初めてだ。連絡を取ろうにも、電話がつながらない。テレビには津波の映像が流れ、ニュースは「甚大な被害をもたらした未曾有の大災害」と繰り返す。
余震の不安、計画停電による営業時間の短縮。
そしてなにより、自粛ムードで外出や楽しみを控え、レストランで食事をすることも大きく減ってしまった。
しかし、時間が経つと、少しずつ人々の考えも変わっていった。
「災害や事故で、いつどうなるかわかならない。だからこそ、会いたい人に会える時に会おう」せっかく会うのだからゆっくり食事をしようと、三笠会館を訪れる人が増えてきた。
善樹、辰哉、そして従業員たちは
「お客様にとって心が癒され、楽しい思い出となるひと時を」
と考え、おもてなしをした。
また、被災地の食材を取り入れたお料理を出し、売上の一部を寄付する。少しでも役に立てるようにと考えた。
世代交代
そして、経済が少しずつ落ち着きを取り戻し始めたある日。
善樹は辰哉に「話がある」と切り出した。
「社長を引退する。しばらくは会長として残るが、辰哉にはすぐにでも代表取締役社長になってもらいたい」
突然のことに、辰哉は返す言葉もなかった。いつかはこのような日が来るだろうと思ってはいたが、それでも急すぎる。困惑する辰哉を前に、善樹の決意は固く「辰哉に任せる」と言ったきりだ。辰哉は、父の善樹の決心は変わらないことを感じ、社長になる覚悟を決めた。
善樹は口に出さなかったが、秘かに考えていた。
東日本大震災という未曽有の災害の影響で、大変な日々だった。だが、辰哉は淡々と受け入れ、やるべきことをやってくれた。このように変化が大きい時代に、また何が起こるかわからない。社長だからこそ見える景色がある。
そして、最終的な責任がある社長だからこそできる挑戦をしてほしい。自分が元気なうちに世代交代をしておけば、もし何かあった時には会長として辰哉を守ることができるだろう。
2012(平成24)年11月。善樹は会長となり、辰哉が四代目社長に就任した。
善樹から社長交代の話が出て、わずか2ヶ月後のことだった。
善之丞と友野。そして善樹の挑戦は、いま辰哉の胸へと受け継がれている。時代は変わっても。
三笠会館のDNAである「挑戦の灯」は消えない。
その光は、次の時代を照らし続けている。
